昨日のブログでも書きましたとおり、我が母校山門高校創立百周年記念事業の一環として東日本大震災の原発事故で避難生活を余儀なくされている福島県立浪江高校野球部を迎え、招待試合が開催されました。
しかし、ご存じの通り筑後地方は朝から大雨洪水警報が発令される程の悪天候。グランドもご覧の通り
折角の仮設応援スタンドが寂しげです。本当なら16日(土)14:30からと17日(日)9:30からの二試合が予定されていましたが、本日の試合は中止。開会行事のみが体育館にて行われました。
山門高校生徒一同が待ち受ける中拍手のアーチをくぐって浪江高校ナインが入場し舞台に上がります。ホスト役の山門高校野球部は前列に整列。
井上校長、板橋同窓会長の挨拶の後、浪江高校の野球部長斉藤先生からご挨拶がありました。要旨を掲載します
[斉藤先生ご挨拶要旨]
東日本大震災の原発事故により、(福島原発から半径20キロ以内に位置する浪江高校は)生徒の半分が県内外に散らばり学校を去って行った。生まれた場所を離れなければならない、今もなお故郷に戻れない、そういう状況で生徒を見て感じることは、普通に学校に通って勉強が出来ること、部活に熱中できること、それを通じて志を同じくする仲間が居ることのありがたさを感じることが出来るようになった。
昨年夏より選手9名、マネージャー1名の合計10名で活動している。浪江高校野球部は抜群に優れた選手がいたり技術で秀でている訳では無いが、体格や技術などには現れない部分で他校に何かを感じさせるチーム作りをしていきたい。
今回の山門高校との交流を通じて、山門高校生の皆さんに何かを与えることが出来ればこの上ない喜び。明日の試合はひたむきに頑張りたい。
淡々と語られる内容は、大きな災害に見舞われる経験が少ない筑後地域に住んでいる我々の胸に重くのしかかり、また起こってしまった災害・事故を乗り越えようとしているひたむきさと強さに感銘を受けました。
その後両校野球部の自己紹介。そして山門高校生から浪江高校野球部への質問タイム。これも色々と考えさせられました
Q:地震の後も野球を続けたのは何故ですか?
A: 震災に負けたくなかったから
人数は少なくなったけど他のチームメイトが頑張っていたから
Q:地震前後で変わったことは?
A: 学校に通えなくなって、違う学校にお世話になっている事
人数が減って野球の実践的な練習が出来なくなった事
Q:震災後に最初に食べたものは?
A: 避難所で食べた味の無い白いご飯
(同様に「固いおにぎり」「雑炊もどき」との答えもあり)
車で食パン
もの凄く特異な答えをしているわけでは無いですが、選手達の口から出る言葉の生々しさはあの震災と避難生活を経験したからこそだと思います。「味の無い白いご飯」という表現は身につまされました。味は無かったんじゃなくて感じられなかったんじゃないだろうか?と。
一方で、「卒業後も野球をしたいか?」という問いには皆さんが「続けたい」と答え、また「震災後に気付いた大切なものは何ですか?」という問いには「仲間」という答え、その屈託のなさに裏付けされる若さ故の適応能力の高さにホッとしたりしました。
そしてブラスバンド部の伴奏に合わせ山門高校の校歌を聴いて頂き、その後浪江高校の校歌を生徒全員で合唱
歌詞を見ながらの合唱ですが、浪江高校との交流試合が決まった後、急遽校歌をCDで送って貰いブラスバンド部がCDから譜面起こしをして伴奏した心のこもった合唱でした。見ている我々の方がウルウルきてしまいました。
夕方には野球部保護者の手を借りて、両校野球部員は校内でBBQの夕食を懇親を兼ねて行い、その後浪江高ナインはそれぞれ山門高野球部員の家にホームステイをする予定です。
「是非試合をやらせて下さい!」
福岡空港に降り立った浪江高ナインと部長は、雨模様の空にもかかわらず声を揃えてこう言ったそうです。
井上校長は
「明日は絶対に試合をさせる。3回だけでもさせて、必ず浪江高校の選手に山門高校のグランドで一回はバットを振って貰う。」
と意気込んでいます。生徒達もブラスバンド部含め全員雨合羽で両校の応援をするそうです。
学校を後にするとき、校舎入り口に大きなテルテル坊主が飾ってありました。山門高校職員生徒一同の思いがこもったテルテル坊主でした。明日天気になって下さい!
[告知]
私の一般質問のスケジュールが決まりました。
6月21日(月)11時頃からの予定です。ネットで生中継も行われます(Windows Media Player必須)
今回の質問内容は
一 イオンとの包括提携協定
1 企業と自治体との適切な距離感について
2 部署を跨がる利益相反について
一 攻めの環境政策について
となっています。見学ツアーも行いますので、興味の有る方は事務所まで御連絡下さい!