先日は「みやま市政治学級 みやまいいまち会」が主催されるまちづくり懇談会にお招き頂き講演をして参りました。
その中でも紹介した「『信無くんば立たず』の誤解」について改めて、ここに記しておきたいと思います。
「信無くんば立たず」は孔子の説いた言葉で、論語に収められています。孔子の弟子である子貢に「政」を説明する言葉ですので、政治関係の話題でよく使われます。小泉純一郎元総理の座右の銘でもあります。最近ではこんなニュースもありました:
首相、小泉元首相と日本料理店の会合で同席 「脱原発の話せず」(産経ニュース 2013.12.17)
小泉氏は会合後、記者団に「脱原発の話をしたのか」と問われ、「いや、原発の話はしなかった」と否定。「安倍首相には一番大事なのは国民の信だ。『信なくば立たず』と言った。安倍首相も国民の信が一番大事だと言っていた」と明らかにした。
この文脈を見れば明らかなように、「信無くんば立たず」とは「社会は政治への信頼なくして成り立つものではない」という意味で大辞泉という辞書に解説してあります。この言葉、逆説的に信頼を失った政治家に進退を迫るような場合にもよく使われていますね。
しかし先日、致知という月刊誌を読んでいたら、安岡定子さんのコラム「子供に語り継ぎたい『論語』の言葉」に目から鱗が落ちる解説がありました。
まず「信無くんば立たず」はこのような子貢とのやり取りから始まります
子貢、政(まつりごと)を問う。子日わく、食を足し、兵を足し、民之(これ)を信にす。
子貢が政治で大事なことは何か聞いた。孔子は、「経済を豊にし、軍備を充実させ、道義心のある民を育てること」と答えた。
「民之を信にす」、つまり「民」を「信にする」とは「道義心のある民を育てること」と解説してあるんですね。信を「国民の信用」としていない訳です。
そして後半、いよいよ「信無くんば立たず」が出てきます
子貢日わく、必ず已(や)むを得ずして去らば、斯(こ)の三者に於て何れをか先にせん。日わく、兵を去らん。日わく、必ず已むを得ずして去らば、斯の二者に於て何れをか先にせん。日わく、食を去らん。古(いにしえ)自(よ)り皆死有り、民信無くんば立たず。
子貢が尋ねた。「三つのうちどれか一つ捨てなければならないとしたらどれを先にしますか」。孔子が言われた。「兵を捨てよう」。子貢がさらに尋ねた。「二つのうちどちらか捨てなければならないとしたらどうしますか」。孔子が言われた。「食を捨てよう。昔から食の有無にかかわらず人は皆死ぬものだ。国は人で成り立っている。善き人物さえ残れば国は発展していく」
お馴染みの「民信無くんば立たず」が、ここでは「国は人で成り立っている。善き人物さえ残れば国は発展していく」と解説されています。
私が思っていた一般的な意味とは全く違う解釈になります。「信」をなぜこのように訳したのか、このコラムではこれ以上の詳しい説明はありません。そこで、様々なサイトを通じて意味を確認したところ、引用文として「信無くんば立たず」を使っているサイトでは、その殆どが「信」を「国民の政治(家)に対する信用」と解釈してありました。
一方で、論語解説を行っているサイトでは、選挙どころか民主政治体制が存在しない論語の時代背景を考慮して「信」は「信義の心」あるいは「信義の徳」というニュアンスで解釈されているものが多く散見されます。すると顔淵第十二にある「民之を信にす」とは「民衆に信義の徳をもたせる」つまり「教育を行う」、「民信無くんば立たず」は「(教育を行わず)民衆が信義の徳を持たなければ、国は成り立たない」と解釈する方がしっくりとします。
その上で、「信義の心」「信義の徳」を国民がもてば、その国民からの信頼を得る政治は自ずと正しい道を歩んでいるでしょう。逆に、教育が行われていない状態で、「国民の信」ばかりを政治が気にすればポピュリズムに走らざるを得なくなるという点で、孔子の考えと矛盾するのではと感じます。
もちろん論語の素晴らしさは、その時々の時代背景に併せた解釈により色あせることのないリーダー論である事ですが、私は論語顔淵第十二は「政の要諦は、外交、経済、教育。特に大事なものは教育だ」と理解したいと思います。
そう思って読んで見ると、最初に紹介したニュース記事にある小泉元総理と安倍総理のやり取りがもの凄く意味深に見えてきませんか?