伊藤整一海軍大将墓前祭

昨日は伊藤整一海軍大将墓前祭に出席しました。
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伊藤整一海軍大将は我がみやま市高田町にて誕生し、伝習館高校を卒業後海軍兵学校・大学校と軍人の道を歩まれ、第二艦隊司令長官として戦艦大和にて天一号作戦に参加。67年前、1945年4月7日、戦艦大和が坊ノ岬沖海戦にて撃沈される際、退艦を拒否し戦死されました。2005年に公開された映画「男たちの大和 YAMATO」で俳優 渡哲也さんが演じていらっしゃったと言えばピンと来る方も多いのでは?

作家の中田整一さんもお越しになっていました。
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中田さんはWikipedia等には熊本県玉名市出身と書いてありますが、生まれて6才まではまさに伊藤大将のお墓の裏にお住まいで、お名前の「整一」は伊藤大将にちなんで付けられたそうです。昭和史を中心に執筆されているノンフィクション作家ですが、御年70才になられて「最後の作品は伊藤整一大将の事を書きたい」と現在国内のみにとどまらず世界三十数カ国で徹底取材を敢行し、「4月7日の桜」という題名で来年の4月7日までに発売したいと仰っていました。
ご挨拶の中で印象に残ったのが「過去を蓄積し得ない国家は責任の所在が不明確になる。歴史は大切だ」という言葉。

伊藤大将は間違いなくこの地域が生んだ偉人です。しかし残念なことに周辺地域の偉人、例えば柳川市の北原白秋や大川市の古賀政男と比較するとその扱いには寂しいものを覚えます。伊藤大将のお墓はちょっと奥まった分かり難い場所で、案内表示もありません。遠方からみやま市に立ち寄られた方が「伊藤大将のお墓を訪ねたい」と言われても、地元住民が案内することも覚束ない。それどころか伊藤大将の存在すら知らない人が増えつつあるのも事実です。

実際、私達が子供の頃、白秋・古賀メロディーについては様々な機会に学び触れていましたが、伊藤大将の話を学校で教わった記憶がありません。太平洋戦争で破れ戦死した軍人であるからでしょうか?しかし中田整一先生が仰るとおり、伊藤大将があの戦いで何を守ろうとしたのか、そして何を残して貰ったのか、我々は自らを知るためにも学ばなければなりません。そして後世に伝えていかなければなりません。
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記念館が無いとかそういう表面的な事では無く、地元の偉人の足跡を次の世代の人に理解して貰い伝え続けることが「歴史」であり、その惜しみない努力が郷土愛に繋がり、郷土を愛する心は他者を尊重する心、家族を愛する心、自分を大切にする心に通じると信じています。これは教育の問題です。議員生活の大きなテーマとして、私に何が出来るのかからしっかり勉強をしていきたいと思います。

最後に、今でも名文として評される、伊藤大将が出撃前夜に妻に宛てた手紙をご紹介します

此の度は栄光ある任務を与えられ、勇躍出撃、必成を期し致死奮戦、皇恩の万分の一に報いる覚悟に御座候。
此の期に臨み、顧みるとわれら二人の過去は幸運に満ちてるものにして、また私は武人として重大なる覚悟をなさんとする時、親愛なるお前様に後事を託して何ら憂い無きは、この上なき仕合せと喪心より感謝致しり候。
お前様は私の今の心境をよくご了解になるべく、私が最後まで喜んでいたと思われなば、お前様の余生の淋しさを幾分にてもやわらげることと存じ候。
心からお前様の幸福を祈りつつ。

四月五日  整一   いとしき最愛のちとせどの